テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

TUFルポルタージュ 神様がくれたもの 沙千佳さん、25年の生涯

番組ID
211240
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2016年10月24日(月)01:35~02:29
時間(分)
48
ジャンル
cinematic_blurドキュメンタリー
放送局
テレビユー福島(TUF)
製作者
テレビユー福島(TUF)
制作社
テレビユー福島(TUF)
出演者
ナレーション:細谷みこ
スタッフ
撮影:佐藤智裕、撮影:渡辺真敏、撮影:浅野智、撮影:大藤優、MA:佐藤佳太、CG:本田萌、ディレクター:池田裕美子、プロデューサー:渡辺孝之、制作:藤間寿朗
概要
福島県天栄村に住む後藤沙千佳さんは、15歳で軟骨のがんを発症し、再発と転移、入退院をくり返す生活を10年以上続けてきた。それでも、彼女は言う。「神様は私に、病気を与えてくれた」と。家族がいること、食事ができること、当たり前のような日常は実は感謝すべきものだということに、がんになって気づいた。デザイナーになるのが夢だった沙千佳さんは、Tシャツをデザインした。その背中には大好きなひまわり、そして伝えたいメッセージが記されている。「すべてに感謝、家族に、友達に、人生に」。明るく前向きな沙千佳さんに魅かれ、このTシャツを着る人たちの輪が広がっていった。その後、沙千佳さんは天国へと旅立ったが、仲間たちは彼女の想いを伝えていくことを誓う。

同じ年代の公開番組

8月6日の切符 ~あの日列車が走った~

あまり知られていない事実だが、原爆が投下された1945年8月6日、広島で国鉄の列車が運行されていた。その列車によって繋がれた命があった。庄原市の江木千鶴子さんは、あの日乗車した芸備線己斐-備後十日市(現在の西広島-三次)間の切符を、原爆資料館に寄贈した。当時1歳8か月の江木さんは広島駅で母親と共に被爆し、その日のうちに列車で広島を逃れた。生き延びることができたのは、沿線の住民らの救護のおかげだった。一方、原爆投下のわずか1時間後、損傷した広島駅では国鉄職員らが復旧作業を始めていた。現在マツダスタジアムがある第一機関区では、貨車を寄せ集めた避難列車が糸崎駅へ向けて出発しようとしていた。その列車で避難した男性は、今もその時の状況を鮮明に覚えている。鉄路を伝って逃げてくる被爆者を機関車の運転席に乗せ、西条に運んだ国鉄マンもいた。列車によって多くの命がつながった一方で、原爆による混乱は、壊滅した広島市街地から遠く離れた郊外にも広がっていくことになる。広島と広島以外。原爆で分かれた2つの世界を列車は行き来した。列車をめぐるあの日の物語を関係者の証言や残された資料から掘り起こす。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
移住女子 ~私は“ちゅくる”で生きる~

佐藤可奈子さんは2014年に建築設計士の幸治さんと結婚し、翌年、長女を出産した。今は子育てをしながら農業に取り組んでいる。可奈子さんは香川県出身。高校時代は自分に自信が持てず、不登校になったこともあったが、東京の大学時代、雪下ろしのボランティアで初めて池谷集落を訪れたのが転機となった。池谷は中越地震後、住民が減っていたが、80歳になろうとする集落の人たちが集落の未来や夢を語ってくれた。感銘を受けた可奈子さんは東京の広告代理店の内定を辞退し、一人で池谷に移住した。移住後は県の研修制度を利用して農業に挑戦した。しかしコメや野菜の販売で稼ぎ、生活するのは難しく、体調を崩したこともあった。悩みを相談できる仲間が必要と感じた可奈子さんは3年前、同じように田舎に移住した阿部里奈さんや渡辺加奈子さんらと共に田舎暮らしの魅力を伝える情報誌「ChuClu(ちゅくる)」の発行を始めた。ちゅくるは四季に合わせて年4回発行し、移住したきっかけや田舎暮らしのノウハウを掲載している。彼女は新たな仲間を増やそうと動き始めた。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
許し難きを許す フィリピン収監旧日本兵帰国の陰で

1953年、太平洋戦争の激戦地・フィリピンで戦犯となった旧日本兵108人が、当時のキリノ比大統領に特赦を与えられ、帰国した。そのキリノ大統領に長年にわたって恩赦を訴え続けたのが、島根県安来市出身の画家・加納莞蕾(かんらい)。ふるさとに設けられた小さな美術館には、彼の洋画や日本画の作品と共に、228通の書簡、その返書73通が展示保管されている。◆フィリピンの戦犯恩赦については、モンテンルパの刑務所で死刑囚が作詞した歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」が大統領の心を動かし、日本国内で盛り上がった助命嘆願運動の為だ、と考えられてきた。◆しかし最近の研究で、莞蕾の書簡はフィリピンの関係機関で大切に保管され、歌が日本でヒットする1年以上前に「キリノ大統領は新たな死刑の執行はしない」という意志を固めていたと記す大統領私設秘書の返書が確認されたのである。書簡の研究成果を総合して考えると、莞蕾が絵筆を折って「憎悪と報復の連鎖を断ち切る為に、許しがたきを許して欲しい」とした訴えに則した形で、大統領が“ゆるし”に至ったという姿が浮かび上がってくる。◆戦後70年を契機に、加納莞蕾のふるさとでは、彼の平和運動を見直そうという動きが高まっている。日本とフィリピンの友好の礎を築いた莞蕾。自らの生活をかえりみず、信念に従い、助命・平和運動に心血を注いだ知られざる市井の画家の思いに迫る。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
生きて“カエル” ~海軍士官が残した書~

1941年12月23日、別府市の料亭「なるみ」に海軍の隊員たちが集まり、真珠湾攻撃の祝勝会が開かれた。参加していたのは、第一撃を落としたとされる高橋赫一海軍少佐らである。この時、料亭の亭主にお礼として、機密だった真珠湾攻撃の写真を密かに手渡した。その写真とともに残したのが、「一撃必中」と書かれた書であった。以後、なるみを訪れた海軍士官らが書をしたためるようになり、1944年末までに300人以上の隊員の書が残されている。多くは「必中」や「撃沈」など勇ましい言葉が並ぶが、その中には、生きて故郷に戻ることを絵で表したとされる「力エル」など、文字では表せない隊員の思いを描いたものもあった。1944年の暮れ、なるみには特攻出撃を控えた隊員が訪れるようになる。最後に残されたのは、1か月後に出撃することになる隊員の書。文字こそ「必中」などと変わりはないが、それまでのものとはまったく異なる荒々しさがあり、覚悟とともにやりきれなさを感じる。残された書を通して、当時の隊員の思いを伝える。◆平成28年度文化庁芸術祭参加作品


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組