テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

VOICE21スペシャル シェルター

番組ID
204942
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2009年11月18日(水)19:55~20:53
時間(分)
49
ジャンル
cinematic_blurドキュメンタリー
放送局
RSK山陽放送(RSK)
製作者
RSK山陽放送(RSK)
制作社
RSK山陽放送(RSK)
出演者
ナレーション:石田好伸
スタッフ
撮影:宮崎賢、構成:曽根英二
概要
刑務所を出所した後、職が無く貧困にあえいでいる人、職を失って行き場のない人。そんな人たちの、いわば駆け込み寺と言える場所がある。パブリック法律事務所だ。東京、大阪に次ぎ、地方都市では初めて、岡山市にこの事務所が開設された。◆行政側にも職の無い人に対する支援の仕組みは有る。しかし、それを受けるには住民票という住居の所在地を証明する書類が要る。パブリック法律事務所に駆け込む人たちの多くは住民票を持たない、いわゆる「ホームレス」だ。この問題を回避するために、事務所では生活保護申請、職業あっせんなどの支援を受けるための、仮の寝床「シェルター」を用意している。◆お酒を万引きして執行猶予付きの有罪判決を受けた男性がシェルターに入った。彼はパブリック法律事務所の弁護士や社会福祉士の手助けで職を探すことになる。大人だけではなく、親から虐待を受けて行き場を失った子どもや、少年院を仮出所したものの家に帰れない少年もいる。街には様々な「シェルター」があった。

同じ年代の公開番組

日曜劇場 JIN-仁-〔1〕

タイムスリップした脳外科医・仁が動乱の幕末を駆け巡る、超歴史スペクタクル&SFヒューマンエンタテインメント。原作:村上もとか、脚本:森下佳子。(2009年10月11日~12月20日放送、全11回)◆第1回。東都大学付属病院の脳外科医・南方仁(大沢たかお)には、自分の手術によって植物状態になってしまった婚約者・友永未来(中谷美紀)がいた。どうすることもできない現実に苛まれる日々。ある日、仁が手術した患者が逃げ出し、患者を探していた仁は階段から落ちて気絶してしまう。気がつくとそこは林の中だった。あたりを歩き回っていると、斬り合いをしている武士に遭遇する。訳が分からないまま、斬られそうになる仁は、橘恭太郎(小出恵介)らに助けられるが、その恭太郎が傷を負ってしまう。そこで仁は急遽、緊急手術を行うことを決意。手術道具もままならない状況だったが、迅速かつ的確な医術で瀕死の恭太郎を救い出した。そんな仁に恭太郎の妹である橘咲(綾瀬はるか)は次第に興味を持ち始める。江戸時代にタイムスリップしてしまったことを確信した仁は、どうにか現代に戻ろうとするが、彼の前に一人の男(内野聖陽)が現れる。


recent_actorsドラマswords時代劇tvテレビ番組
ドテキリや~い ~消えた幻のカニを追う~

瀬戸内海の干潟には、かつて「ドテキリ」と呼ばれる大型のカニがたくさん棲んでいた。ドテキリは一般的にはノコギリガザミという種のカニで、その濃厚な味は高級食材として珍重される。◆このドテキリを復活させ、地元の特産料理にしようと、岡山県玉野市の商工会議所が動き出した。会議所のメンバーが頼るのは、岡山理科大学の山本俊政准教授。山本准教授は好適環境水という特殊な水を開発して、海水の生物と淡水の生物を同じ水槽で飼育する技術を持っている。汽水域に住むドテキリの強い味方だ。◆依頼を受けた山本准教授はドテキリの生息環境を調べるため、まだ多くのドテキリが棲んでいる沖縄の石垣島に飛んだ。そこには生物のゆりかごとも言われる干潟が広がっていた。瀬戸内海は開発によってこの干潟が失われている。◆調査をしている山本准教授の元に、大学から知らせが届いた。試験的に好適環境水で育て始めたドテキリが卵を放出し、その卵からゾエアと呼ばれるカニの幼生が孵化し始めたというのだ。番組では、ドテキリ復活に熱い思いを寄せる人たちの姿を伝え、また干潟の大切さを考える。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
テレメンタリー2009 45年目のハネムーン ~病室からタイへ… 覚悟の巡礼~

2009年6月、病院で点滴を受けるひとりの女性がいた。藤原佳子さん79歳、肝硬変で倒れて3年あまり。何度かこん睡状態に陥ったり、肝臓の腫瘍の除去手術も受けたりもした。点滴で命をつないでいるような状態だ。◆佳子さんは夫の元陸軍通訳・永瀬隆さんとともに、泰緬鉄道の犠牲者の慰霊とタイへの「恩返し」に取り組んできた。太平洋戦争中、日本軍がタイとビルマの間に建設した泰緬鉄道では、1万3千人の連合軍捕虜と数万人のアジア人労務者が過酷な労働と栄養不足、コレラや赤痢などの蔓延で死亡した。永瀬さんは終戦直後、連合軍の墓地捜索隊に同行を命じられ、鉄道沿線で遺骨の確認に従事した。また1946年に復員する際、タイ政府は12万人の日本兵全員に米と砂糖を支給してくれた。永瀬さんの活動はこの2つの経験が動機となっている。佳子さんは兄をビルマで亡くした。母から兄の慰霊を命じられていた佳子さんは、永瀬さんと共に戦争犠牲者の慰霊に生涯を捧げることを決意した。◆1964年に一般日本人の海外渡航が自由化されると、夫婦は直ちにタイへの巡礼に赴いた。これが2人にとってのハネムーンだった。翌年からはタイ人留学生を自宅に受け入れ始める。元捕虜との和解の再会計画を実現し、「クワイ河平和基金」を設立して看護学生に奨学金を贈るなどの活動を、二人三脚で続けてきた。◆2008年「最後の巡礼」を済ませた永瀬さんに、佳子さんは「どうしても」と再度のタイ訪問を望む。かばんには主治医が持たせてくれた点滴の処方と薬。入院先の病院を抜け出して、135回目の「ハネムーン」が始まった。2人は「45年目のハネムーン」を無事終えて、大願を成就することができるのだろうか。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組