テレビ・ラジオで放送された番組・CM4万本以上を視聴できるほか、展示やイベントを通じて放送の今と昔を学べます。 入館無料

tv
テレビ番組

ダイドードリンコスペシャル あばれ神輿への想い ~能登の男が輝く瞬間~

番組ID
206569
※放送ライブラリーの視聴ブースでは、番組IDを入力することで、簡単に番組を選べます。
放送日時
2011年05月29日(日)15:00~15:55
時間(分)
49
ジャンル
cinematic_blurドキュメンタリー
放送局
北陸放送(MRO)
製作者
北陸放送(MRO)
制作社
北陸放送(MRO)、北陸アイティエス
出演者
ナレーション:前原智子
スタッフ
撮影:上野幸太郎、撮影:西田直人、撮影:高木勝次郎、撮影:山本祐二、音声:根来武一郎、音声:北本康一、音声:大豊新太郎、音声:岡田利馬、MA:塚野誠司、CG:山田真実、CG:小山内春奈、取材:坂爪陽介、取材:園浩敬、ディレクター:大西宏和、技術:石林雅之、制作:保田浩介
概要
多くの祭りが受け継がれている石川県。およそ350年の歴史がある県指定無形民俗文化財、能登町宇出津の「あばれ祭」を紹介する。◆7月初旬、能登に本格的な夏の訪れを告げる「あばれ祭」は、能登の祭りの中でも最も勇壮な祭りの一つ。高さ7m、40本以上のキリコが港町を練り歩き、2基の神輿を海や川、火の中に投げ込んで暴れる。暴れれば暴れるほど神様が喜ぶとされ、神聖なこの神輿を担げるのは1基につき30人の選ばれた者のみ。担ぎ手の「たすき」を付けていない者は「あばれ神輿」に触れることすら許されない。◆町全体の弥栄(いやさか/繁栄)を祈願する責任と伝統の重み。男たちはその重さを肩に受けて神輿を担ぎ、水の中、炎の中を、熱く、激しく暴れる。番組では、激しい「あばれ」に耐えられる神輿を毎年作り続ける職人、宇出津の男たちの憧れである担ぎ手の責任者、「あばれ神輿」にまつわる男たちの熱い想いを追う。

同じ年代の公開番組

血管奇形 “難病”と闘う大翔くんと家族

リンパ管などがうまく形成できず、体の一部に異常な状態で残ってしまう先天性の病気「血管奇形」。医師の間ですらほとんど知られていない、原因も分からない、確立した治療法もない難病。北海道恵庭市に住む渕端大翔(ひろと)くん、6歳。大翔くんは辛い検査や対処療法を繰り返しながら、先の見えない闘病生活を続けている。◆「血管奇形」は、国が指定する調査や治療の研究対象である「難病」には入っていない。このため患者数の把握や治療法の研究さえ進まない状況にある。「難病」に指定されれば医療費が助成され患者の負担がほとんどないが、指定から漏れた多くの難病の患者は大きな困難と負担を強いられている。◆また難病の薬は「オーファン(孤児)ドラッグ」と呼ばれ、採算の合わない開発に製薬会社は着手しようとしない。このため、いつまでも治療薬ができなかったりするなど「命」と「採算性」が天秤にかけられているような現実がある。◆番組では、さまざまな困難を乗り越えようとする大翔くんと家族に密着しながら、「普通学級に通いたい」という大翔くんの夢をかなえるために奔走する母親や受け入れた小学校の決断を追うとともに、国の難病対策の問題点などを考える。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組
テレメンタリー2011 ベースボール イン カウラ

オーストラリアの田舎町カウラに日本から一人の中学生が留学してきた。彼が大好きなのは野球だが、学校には野球をする生徒はそれまで一人もいなかった。しかし、65年以上前、この地に野球が花開いた時期があった。◆太平洋戦争中、この町には捕虜収容所が設置され、最大で1100人の日本人捕虜が収容されていた。彼らの大きな楽しみが野球だった。バットやグローブは材木を削ったり、支給された革靴をほどいたりして手作りした。オーストラリア側の捕虜の扱いはジュネーブ条約にのっとった良好なものだった。ラインを引く石灰の代わりにメリケン粉を使ったり、魚を要求すればニュージーランドから空輸されたりもした。捕虜の間には生きる喜びが芽生えていた。◆だが、安楽な日々は突然終わりを告げる。1944年8月5日、日本人捕虜が集団脱走。ある者は機関銃に撃たれ、ある者は自ら首を吊って234人が死亡した。きっかけは些細なことだった。捕虜が増えて収容所が手狭になったため、オーストラリア側が捕虜を兵と下士官に分離することを通告したのだ。捕虜であることの屈辱を晴らす機会をうかがっていた一部の強硬派の捕虜が決起を主張する。穏健派は全員による投票を提案するが、投票の際、捕虜を動かしたのは、暴動に反対とは主張しにくい「空気」だった。◆捕虜の中でひときわ目立つ存在だった人物がいる。長くキャンプリーダーを務め、暴動の開始を告げる突撃ラッパを吹いた「南忠男」だ。事件で死亡した南は偽名だったため、長く本名や出身地は謎のままだった。しかし日豪の研究者などの調査で、1980年代になって香川県出身の海軍パイロットとわかった。彼はダーウィン空襲で被弾し、奇跡的に不時着してオーストラリアにおける日本人捕虜の第1号となっていたのだ。◆彼の墓の命日は、カウラ事件ではなく、1回目のダーウィン空襲が行われた1942年2月のままである。その他、多くの捕虜が帰国してみると戦死したことにされていた。カウラ市内の日本人墓地に眠る人の中にも、本当の命日を遺族が知らない人が他にもたくさんいるはずだ。


cinematic_blurドキュメンタリーtvテレビ番組